2006年 10月 15日
集会報告 |
【アジアからの証言】
台湾 チワス・アリさん
「なぜ、何度も日本に来て、『魂を返せ』と訴え続けるのか」と、皆さんが私に問いかけます。台湾の原住民族は日本による植民地支配の苦痛を心に深く受けています。私は台湾原住民族の子孫として、歴史を次の世代に伝えたいのです。私たちが靖国神社に反対する理由は明らかです。
台湾の資源に注目した日本の軍国主義者は、1895年に台湾を植民地化しました。1896年から24年間に8万人の原住民族のうち7千人を殺し、生き残った子どもたちに皇民化教育をおこないました。彼らが青年になったとき、約2万人を「高砂義勇隊」として戦場に送りこみましたが、生還したのは3分の1にすぎません。
戦死した日本人兵士たちと、亡くなった高砂義勇隊の人たちは、ともに靖国神社に合祀されています。生きているときは植民地支配によって収奪され、死後は魂を靖国神社に奪われているのです。靖国神社は「侵略神社」です。靖国神社の大鳥居は、台湾の阿里山から伐り出された木材で作られています。靖国神社に合祀されているのは、侵略戦争で死んだ兵士たちとA級戦犯です。靖国神社がしていることは文化、人権、信仰に対する暴力です。私たちは靖国神社に対して、台湾原住民族の名前を削除してほしいと要求しました。なぜこんな遺族のささやかな願いを認めてくれないのでしょうか。私は日本政府が歴史を直視して、心から謝罪することを願っています。平和を望んでいる国であることを、行動をもって示してほしいのです。
韓国 金 旭(キム・ウク)さん
私の父は、私が国民学校5年生の時に日本の警察によって強制徴用で連れて行かれました。祖父が父に手紙を出すときに、私が日本の父宛の住所を書き続けていたので、その住所をはっきりと覚えています。「日本国鹿児島県熊毛郡下屋久島栗生 河原事業所」です。60年間、この住所を覚えていれば父の遺骨に会う日が来ると希望を持って生きてきました。ある日本人が、日本人は遺骨を大切にするから、徴用で亡くなっていてもきっとお寺が保管していて、探し当てれば渡してくれるだろうと慰めてくれたので、その言葉を励みとしてきました。私が若い頃の韓国は非常に貧しく、遺骨問題を考える余裕はありませんでした。その後、鹿児島や熊本を訪問し父を探しましたが成果は得られず、2000年の屋久島行きは台風で断念しました。子どもたちに「お父さんは日本に行くのに何故おじいさんの遺骨を探せないの」と質問され、そのたびに自分が恥ずかしくて悲しくて、子どもたちに何も言えませんでした。
2004年、韓日首脳間で遺骨調査の合意があり、韓国の真相究明委員会に申請する機会を得ました。そして日本の市民団体の協力でこの7月、念願の屋久島訪問がかないました。1940年作成の地図には私の記憶していた地名があり、この島に必ず父の遺骨があると心を躍らせました。しかし、山の麓のその地には何も残っていなくて私は失望しました。遺骨を探せなかったこと、生活に追われて来るのが遅くなったことをひたすら父に詫びました。そこでどんな苦しい生活があったのかを想像するしかありませんでした。いつかきっと父の遺骨を韓国に戻したいと思っています。船で出発するとき島を見ると、私の心はなんともいえない悲しみに包まれ、涙でいっぱいになりました。
韓国 金錦順(キム・クムスン)さん
私の父は、1944年冬に村の区長の命令で巡査に強制的に引っ張られました。一度は逃亡して身を隠していましたが、1945年3月に区長によって再度、連行されました。その後一度だけ「南洋群島マリアナ」と書かれた封筒に入ったお金6円を受け取ったと祖父から聞かされました。私は父の連行後に生まれたので、もちろん父の顔も知らず、一度もお父さんと呼ぶことはできませんでした。5歳で母も亡くし、孤児として親戚を転々とし、幼年期は食事も満足に与えられない惨めな悲しい日々を送りました。最後に行った叔母の家で食事はお腹いっぱい食べられましたが、8歳で女中暮らしを強いられました。そのため、ほとんど学校へは行けませんでした。
ある日、ラジオで日帝時代に強制連行された人の登録を受け付けるということを知り、1989年10月に申請しました。父を知らなくともせめて生死確認だけでもできないと、この「恨」は積もり続けるしかありません。真相究明を求め、雨の日も雪の日も何度でも日本大使館に足を運び、叫び続けました。何十回も警察に連行されました。1995年12月の厚生省の役人との交渉では、あまりの無責任さに瞬間的に腹が立ち、その首を絞めようとしたこともあります。「恨」が極限に達してしまったのです。
いまは、正当な謝罪と補償を求めて、胃癌の手術を受けた病身で活動しています。
韓国 崔洛勛(チェ・ナクフン)さん
1942年、ソウルにいた父は日本へ渡り、その後、父からは月に1度ぐらい手紙が来ましたが、その頃、私たち家族は祖父の家で暮らし、父からの手紙は祖父が受け取って読み、元気だということ以外の詳しいことはほとんど知らされませんでした。解放後、父から9月の初めに帰国するという手紙をもらいました。夫がいない生活を送ってきた母と私ども三兄弟は父の帰りを待ちわびましたが、父は戻らず、現在に至るまで父に関するどのような知らせも届いていません。それで、帰国の際に船が沈没したのではないかと推測しています。母は幼い子どもたちを飢えさせないために行商しながら生計を立て、その苦労はとても口で言いあらわすことはできません。
父に関する当時の記録は父から送られた一枚の色あせた写真のみです。この写真をいまも私どもは大事に保管していますが、裏面に「協和訓練隊、昭和17年9月23日記念撮影」という文字が書かれていて、隊員の住所も記載されています。私も自ら調査するために日本の厚生省、郵政省、そして社会保険事務センターにもそれぞれ調査を依頼しましたが、おもわしい回答は得られませんでした。以前、私が日本を直接訪問してあちこち調べ探しましたが結果は同じでした。私にいつも父の消息を尋ねていた母に正確な答えを伝えられず、日々苦しい思いをしてきましたが、その母も先月90歳で亡くなりました。
最近、日本政府が直接、徴用者・軍人・軍属の遺骨を収集するということを聞きました。64年の歳月の後ではあまりにも遅すぎるという感はありますが、徹底した調査をすべきです。
被害者の遺族たちの意思とは関係なく政治的な決着をするということでは、再び私ども遺族を愚弄することになります。特に遺骨問題に関しましては、遺骨を移すのは遺族だけができることだと、私はここで強調したいと思います。
韓国 李金寿(イ・グムス)さん
父は1942年に日本に徴用されました。次の年に生まれた私は、父の顔も知りません。
母は婚家を出て再婚することなく、貧しいなりに私たち3人の姉妹を育ててくれました。しかし、父方の祖父は田畑のほとんどを父の兄弟に与え、私たちのその後の面倒を見てくれませんでした。韓国では女だけで生きていくことはとても難しく、家や財産の権利を引き継ぐために養子を入れましたが、その男に財産を奪われたりもしました。
「父が生きていれば……」といつも思って暮らしてきました。今回、韓国政府の真相調査事業への参加は、母が生前、私たちに「早くお前たちのお父さんに関する記録を探し、どこでどのようにして死んだかを調べておくれ、それが私の願いだから、必ず探しておくれ」と頼んできた言葉を、忘れたことはないからです。私としては日本の靖国神社を糾弾することより、父の遺骨をぜひとも連れ帰りたいと思っています。
韓国 李金珠(イ・グムジュ)さん
私は1920年、植民地統治下に、今の北朝鮮・平壌で生まれました。朝鮮語の禁止・日本語使用・神社参拝・創氏改名・皇国臣民の誓い、目に見えない天皇への最敬礼、「日の丸」に対する最敬礼などの公民化教育を強要されました。
1940年に夫と結婚し、男子が生まれました。1942年11月に夫に召集令状が届いた時、私は天が崩れ、地が落ち込むような恐怖に震え、食事もせずに泣くばかりでした。1945年4月、戦死公報が届いた時、泣いても泣いても声にならず、涙は一滴も出ず、天と地すべての物が黄色みがかって見えて倒れてしまいました。
1971年、厚生省に問い合わせたところ、1943年11月25日、南洋諸島タラワ島で戦死した夫の死亡証明書を持ってきました。軍人・軍属の身上調査票には、私の夫も含めて「34・7・31靖国神社合祀済」という日付印がはっきりと押されていました。
日本政府と軍は、朝鮮を奪い、朝鮮人に多くの精神的・肉体的・経済的被害を与えましたが、犠牲者を追悼し、遺族に謝罪・賠償することはしていません。ところが靖国神社には合祀したのです。
私の夫は、天皇のための侵略戦争に、家族と祖国を捨てて進んで命を捧げるような愚かな人間では絶対にありません。A級戦犯らによって強制動員され、願わない死を強いられたのです。夫も私も反人類的戦争犯罪に同調しません。侵略戦争を正義の戦争とみなし、戦没者を戦争の英雄と崇(あが)める靖国神社に祀るのは、夫に対する冒(ぼうとく)です。
小泉首相が、平和に背き、朝鮮人戦没者を侮辱する靖国神社参拝を直ちにやめることを強く要求します。(「週刊かけはし」8・28号より抄録)
日本 岩淵宣輝さん
私が物心ついた頃、父は西ニューギニアで戦死し、白木の箱だけが帰ってきました。私は昭和42年から現在までニューギニアに262回、行ったり来たりしながら未帰還日本兵の遺骨を調査発掘し、現在はNPO法人・太平洋戦史館の専務理事をしています。
戦争で246万人の兵隊さんが亡くなったというなかで、まだ日本に戻って来れない人が今年の日本政府公式発表で115万人います。私が申し上げたいのは、兵隊さんが死んだ時のまま現在まで放置され、髑髏(しゃれこうべ)としてゴロゴロ転がっている状況を、「遺骨」とは言えないということです。海の外の戦場で死んで、東京都だけでもまだ1万人が日本へ戻れないまま放置されています。日本の国の役所には、兵隊さんを送り出しても、捜索しようとかお迎えに行こうとか、そういう業務をやる部局が現在存在しておりません。びっくりするかもしれませんが、子どもたちに命の大切さを云々しながら、兵隊さんたちは向こうへ行ったまんまです。そのことが日本という国で社会問題にならないということが、私は重大な問題であるととらえています。
白骨死体に番号の読みとれる認識票が出てくると明確に日本人だということになります。動物の骨もかなり入っています。それを白人、蒙古系、黒人と分けながら、残った兵隊さんたちを焼いて日本にお迎えしている状況です。いつまでこんな事を続けなければいけないのか、という思いもあります。それでも、情報が入ってくる限り、私たちはお迎えに行かなくではいけないと思っております。こういう放置された兵隊がいるということを、日本のみなさんに伝えるとともに、「靖国神社には(兵隊さんたちは)いないよ」ということだけは、明確にしていきたいと思っています。
日本 秋山格之助さん
私の兄は沖縄で戦死しました。日本兵士の遺骨が100万人以上も未発見、未回収であるということは、すべて法律の問題であり、日本政府に回収する意思がないことによります。民間の遺骨発掘団が作業しているそばで、自衛隊の爆弾処理班の隊員は、爆弾が出てこない限り談笑しているのです。
政府は口では「尊い戦死者」と持ち上げておきながら、その戦死者の遺骨を探す意思がないのです。アメリカでは遺骨の探索、固体確認に年間一体当たり7万3千円を費やしているのに、日本では448円しかかけていません。
無名戦士の墓といわれている千鳥ヶ淵墓苑も、法律上は墓地といえず、正式な埋葬は一体もされていないのです。遺骨を納める六角堂は、六畳二間相当の空間に三十万体を納めています。つまり、30センチ立法に200体を入れていることになります。これは遺骨を再度、ほとんど粉の灰になるように高温で焼き、灰は海に捨ててしまうため、この魔法が成り立つのです。
1955年(昭和30年)頃に戦没者墓地構想が具体化する段階で、靖国神社の衰退を危惧する団体が圧力をかけたため、このような千鳥ヶ淵墓苑にしてしまったのです。戦没者もその遺骨も、靖国神社の犠牲になっているのです。
台湾 チワス・アリさん
「なぜ、何度も日本に来て、『魂を返せ』と訴え続けるのか」と、皆さんが私に問いかけます。台湾の原住民族は日本による植民地支配の苦痛を心に深く受けています。私は台湾原住民族の子孫として、歴史を次の世代に伝えたいのです。私たちが靖国神社に反対する理由は明らかです。
台湾の資源に注目した日本の軍国主義者は、1895年に台湾を植民地化しました。1896年から24年間に8万人の原住民族のうち7千人を殺し、生き残った子どもたちに皇民化教育をおこないました。彼らが青年になったとき、約2万人を「高砂義勇隊」として戦場に送りこみましたが、生還したのは3分の1にすぎません。
戦死した日本人兵士たちと、亡くなった高砂義勇隊の人たちは、ともに靖国神社に合祀されています。生きているときは植民地支配によって収奪され、死後は魂を靖国神社に奪われているのです。靖国神社は「侵略神社」です。靖国神社の大鳥居は、台湾の阿里山から伐り出された木材で作られています。靖国神社に合祀されているのは、侵略戦争で死んだ兵士たちとA級戦犯です。靖国神社がしていることは文化、人権、信仰に対する暴力です。私たちは靖国神社に対して、台湾原住民族の名前を削除してほしいと要求しました。なぜこんな遺族のささやかな願いを認めてくれないのでしょうか。私は日本政府が歴史を直視して、心から謝罪することを願っています。平和を望んでいる国であることを、行動をもって示してほしいのです。
韓国 金 旭(キム・ウク)さん
私の父は、私が国民学校5年生の時に日本の警察によって強制徴用で連れて行かれました。祖父が父に手紙を出すときに、私が日本の父宛の住所を書き続けていたので、その住所をはっきりと覚えています。「日本国鹿児島県熊毛郡下屋久島栗生 河原事業所」です。60年間、この住所を覚えていれば父の遺骨に会う日が来ると希望を持って生きてきました。ある日本人が、日本人は遺骨を大切にするから、徴用で亡くなっていてもきっとお寺が保管していて、探し当てれば渡してくれるだろうと慰めてくれたので、その言葉を励みとしてきました。私が若い頃の韓国は非常に貧しく、遺骨問題を考える余裕はありませんでした。その後、鹿児島や熊本を訪問し父を探しましたが成果は得られず、2000年の屋久島行きは台風で断念しました。子どもたちに「お父さんは日本に行くのに何故おじいさんの遺骨を探せないの」と質問され、そのたびに自分が恥ずかしくて悲しくて、子どもたちに何も言えませんでした。
2004年、韓日首脳間で遺骨調査の合意があり、韓国の真相究明委員会に申請する機会を得ました。そして日本の市民団体の協力でこの7月、念願の屋久島訪問がかないました。1940年作成の地図には私の記憶していた地名があり、この島に必ず父の遺骨があると心を躍らせました。しかし、山の麓のその地には何も残っていなくて私は失望しました。遺骨を探せなかったこと、生活に追われて来るのが遅くなったことをひたすら父に詫びました。そこでどんな苦しい生活があったのかを想像するしかありませんでした。いつかきっと父の遺骨を韓国に戻したいと思っています。船で出発するとき島を見ると、私の心はなんともいえない悲しみに包まれ、涙でいっぱいになりました。
韓国 金錦順(キム・クムスン)さん
私の父は、1944年冬に村の区長の命令で巡査に強制的に引っ張られました。一度は逃亡して身を隠していましたが、1945年3月に区長によって再度、連行されました。その後一度だけ「南洋群島マリアナ」と書かれた封筒に入ったお金6円を受け取ったと祖父から聞かされました。私は父の連行後に生まれたので、もちろん父の顔も知らず、一度もお父さんと呼ぶことはできませんでした。5歳で母も亡くし、孤児として親戚を転々とし、幼年期は食事も満足に与えられない惨めな悲しい日々を送りました。最後に行った叔母の家で食事はお腹いっぱい食べられましたが、8歳で女中暮らしを強いられました。そのため、ほとんど学校へは行けませんでした。
ある日、ラジオで日帝時代に強制連行された人の登録を受け付けるということを知り、1989年10月に申請しました。父を知らなくともせめて生死確認だけでもできないと、この「恨」は積もり続けるしかありません。真相究明を求め、雨の日も雪の日も何度でも日本大使館に足を運び、叫び続けました。何十回も警察に連行されました。1995年12月の厚生省の役人との交渉では、あまりの無責任さに瞬間的に腹が立ち、その首を絞めようとしたこともあります。「恨」が極限に達してしまったのです。
いまは、正当な謝罪と補償を求めて、胃癌の手術を受けた病身で活動しています。
韓国 崔洛勛(チェ・ナクフン)さん
1942年、ソウルにいた父は日本へ渡り、その後、父からは月に1度ぐらい手紙が来ましたが、その頃、私たち家族は祖父の家で暮らし、父からの手紙は祖父が受け取って読み、元気だということ以外の詳しいことはほとんど知らされませんでした。解放後、父から9月の初めに帰国するという手紙をもらいました。夫がいない生活を送ってきた母と私ども三兄弟は父の帰りを待ちわびましたが、父は戻らず、現在に至るまで父に関するどのような知らせも届いていません。それで、帰国の際に船が沈没したのではないかと推測しています。母は幼い子どもたちを飢えさせないために行商しながら生計を立て、その苦労はとても口で言いあらわすことはできません。
父に関する当時の記録は父から送られた一枚の色あせた写真のみです。この写真をいまも私どもは大事に保管していますが、裏面に「協和訓練隊、昭和17年9月23日記念撮影」という文字が書かれていて、隊員の住所も記載されています。私も自ら調査するために日本の厚生省、郵政省、そして社会保険事務センターにもそれぞれ調査を依頼しましたが、おもわしい回答は得られませんでした。以前、私が日本を直接訪問してあちこち調べ探しましたが結果は同じでした。私にいつも父の消息を尋ねていた母に正確な答えを伝えられず、日々苦しい思いをしてきましたが、その母も先月90歳で亡くなりました。
最近、日本政府が直接、徴用者・軍人・軍属の遺骨を収集するということを聞きました。64年の歳月の後ではあまりにも遅すぎるという感はありますが、徹底した調査をすべきです。
被害者の遺族たちの意思とは関係なく政治的な決着をするということでは、再び私ども遺族を愚弄することになります。特に遺骨問題に関しましては、遺骨を移すのは遺族だけができることだと、私はここで強調したいと思います。
韓国 李金寿(イ・グムス)さん
父は1942年に日本に徴用されました。次の年に生まれた私は、父の顔も知りません。
母は婚家を出て再婚することなく、貧しいなりに私たち3人の姉妹を育ててくれました。しかし、父方の祖父は田畑のほとんどを父の兄弟に与え、私たちのその後の面倒を見てくれませんでした。韓国では女だけで生きていくことはとても難しく、家や財産の権利を引き継ぐために養子を入れましたが、その男に財産を奪われたりもしました。
「父が生きていれば……」といつも思って暮らしてきました。今回、韓国政府の真相調査事業への参加は、母が生前、私たちに「早くお前たちのお父さんに関する記録を探し、どこでどのようにして死んだかを調べておくれ、それが私の願いだから、必ず探しておくれ」と頼んできた言葉を、忘れたことはないからです。私としては日本の靖国神社を糾弾することより、父の遺骨をぜひとも連れ帰りたいと思っています。
韓国 李金珠(イ・グムジュ)さん
私は1920年、植民地統治下に、今の北朝鮮・平壌で生まれました。朝鮮語の禁止・日本語使用・神社参拝・創氏改名・皇国臣民の誓い、目に見えない天皇への最敬礼、「日の丸」に対する最敬礼などの公民化教育を強要されました。
1940年に夫と結婚し、男子が生まれました。1942年11月に夫に召集令状が届いた時、私は天が崩れ、地が落ち込むような恐怖に震え、食事もせずに泣くばかりでした。1945年4月、戦死公報が届いた時、泣いても泣いても声にならず、涙は一滴も出ず、天と地すべての物が黄色みがかって見えて倒れてしまいました。
1971年、厚生省に問い合わせたところ、1943年11月25日、南洋諸島タラワ島で戦死した夫の死亡証明書を持ってきました。軍人・軍属の身上調査票には、私の夫も含めて「34・7・31靖国神社合祀済」という日付印がはっきりと押されていました。
日本政府と軍は、朝鮮を奪い、朝鮮人に多くの精神的・肉体的・経済的被害を与えましたが、犠牲者を追悼し、遺族に謝罪・賠償することはしていません。ところが靖国神社には合祀したのです。
私の夫は、天皇のための侵略戦争に、家族と祖国を捨てて進んで命を捧げるような愚かな人間では絶対にありません。A級戦犯らによって強制動員され、願わない死を強いられたのです。夫も私も反人類的戦争犯罪に同調しません。侵略戦争を正義の戦争とみなし、戦没者を戦争の英雄と崇(あが)める靖国神社に祀るのは、夫に対する冒(ぼうとく)です。
小泉首相が、平和に背き、朝鮮人戦没者を侮辱する靖国神社参拝を直ちにやめることを強く要求します。(「週刊かけはし」8・28号より抄録)
日本 岩淵宣輝さん
私が物心ついた頃、父は西ニューギニアで戦死し、白木の箱だけが帰ってきました。私は昭和42年から現在までニューギニアに262回、行ったり来たりしながら未帰還日本兵の遺骨を調査発掘し、現在はNPO法人・太平洋戦史館の専務理事をしています。
戦争で246万人の兵隊さんが亡くなったというなかで、まだ日本に戻って来れない人が今年の日本政府公式発表で115万人います。私が申し上げたいのは、兵隊さんが死んだ時のまま現在まで放置され、髑髏(しゃれこうべ)としてゴロゴロ転がっている状況を、「遺骨」とは言えないということです。海の外の戦場で死んで、東京都だけでもまだ1万人が日本へ戻れないまま放置されています。日本の国の役所には、兵隊さんを送り出しても、捜索しようとかお迎えに行こうとか、そういう業務をやる部局が現在存在しておりません。びっくりするかもしれませんが、子どもたちに命の大切さを云々しながら、兵隊さんたちは向こうへ行ったまんまです。そのことが日本という国で社会問題にならないということが、私は重大な問題であるととらえています。
白骨死体に番号の読みとれる認識票が出てくると明確に日本人だということになります。動物の骨もかなり入っています。それを白人、蒙古系、黒人と分けながら、残った兵隊さんたちを焼いて日本にお迎えしている状況です。いつまでこんな事を続けなければいけないのか、という思いもあります。それでも、情報が入ってくる限り、私たちはお迎えに行かなくではいけないと思っております。こういう放置された兵隊がいるということを、日本のみなさんに伝えるとともに、「靖国神社には(兵隊さんたちは)いないよ」ということだけは、明確にしていきたいと思っています。
日本 秋山格之助さん
私の兄は沖縄で戦死しました。日本兵士の遺骨が100万人以上も未発見、未回収であるということは、すべて法律の問題であり、日本政府に回収する意思がないことによります。民間の遺骨発掘団が作業しているそばで、自衛隊の爆弾処理班の隊員は、爆弾が出てこない限り談笑しているのです。
政府は口では「尊い戦死者」と持ち上げておきながら、その戦死者の遺骨を探す意思がないのです。アメリカでは遺骨の探索、固体確認に年間一体当たり7万3千円を費やしているのに、日本では448円しかかけていません。
無名戦士の墓といわれている千鳥ヶ淵墓苑も、法律上は墓地といえず、正式な埋葬は一体もされていないのです。遺骨を納める六角堂は、六畳二間相当の空間に三十万体を納めています。つまり、30センチ立法に200体を入れていることになります。これは遺骨を再度、ほとんど粉の灰になるように高温で焼き、灰は海に捨ててしまうため、この魔法が成り立つのです。
1955年(昭和30年)頃に戦没者墓地構想が具体化する段階で、靖国神社の衰退を危惧する団体が圧力をかけたため、このような千鳥ヶ淵墓苑にしてしまったのです。戦没者もその遺骨も、靖国神社の犠牲になっているのです。
by kokoro_kizamu
| 2006-10-15 15:20
| 2006年集会報告